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| 島原城は寛永元(1624)年、松倉豊後守重政が7年の歳月をかけて築いたものです。五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でした。 |
| それ以来約250年間、4氏19代の居城として、数多くの物語が生まれました。しかし、明治の御一新で惜しくも解体されてしまいました。天守閣をはじめすべての建物をなくした島原城は、城壁だけを残して長年の風雪に耐えてきました。 |
| 島原人の心のよりどころとして「お城」の復活を待ち続けてきましたが、その熱意が実って昭和35年にまず「西の櫓」が、続いて39年に「天守閣」を復元することができました。そのとき館内を資料館にして、収集した史・資料を「キリシタン史料」「郷土資料」「民俗資料」と各階毎に公開しています。その後、47年には「巽の櫓」を復元して、郷土出身者で文化勲章受賞者である北村西望先生の彫塑を展示した「西望記念館」開館しました。さらに平成8年には、雲仙普賢岳噴火災害を映像と各種資料で紹介する「観光復興記念館」を開きました。 |
| 青い空に白い天守閣がよく映える 島 原 城 |
大手御門跡から眺める島原城はすばらしい。青い空に白い五層の天守閣がよく映える堀から15b上に矢狭間をもつ瓦葺白壁塀とその上に三層の巽櫓、右手の丑寅櫓と左手の西櫓も見える。その上に五層の白色総塗込みの天守閣が35メートルの高さに聳え立つ。
石垣は緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立ち、築後380年にもなるがびくともしない。突角が13箇所見られる。防衛上の死角をなくす為だけでなく、城に権威を与え、またそれが美観を醸し出す。
御堀もまた美しい。春の菖蒲、夏は蓮の花に彩りされてすがすがしい。冬はその枯葉の間に澄み切った空と天守閣を写してと、風情がある。
さすが兵法の大家、築城の名人、松倉豊後守重政の作である。 |
| かつてここには森岳と言う小山があった。そこへ百万と言う労力と7年の歳月をかけて寛永元(1624)年、島原城を生み出した。この時、北と東を埋め立てて武士屋敷や三会町を造り出し、さらに城下町を整備した。 |
| 城郭は南に偏って本丸があり、そこには17間(33b)の天守が聳え立つ。北隣に二の丸が廊下橋で結ばれていた。さらに北側に三の丸があって、御殿が置かれた。その外郭は東西360b、南北1260b。周囲に3900bの塀をめぐらせ、要所には大小16の櫓を配置した。その内部に上士屋敷を、外部に下士屋敷を置いた。4万石の大名にしては過分の城であった。 |
築城以来250年にわたって歴代藩主の居城として、島原藩政の中心として栄えた。また軍事上の拠点として、特に松平氏統治時代は九州の隠れ目付として重要な任務を担った。
この名城、島原城も明治のご一新で廃城。立ち木一本に至るまで民間に払い下げられ、売却されてしまった。島原の乱で炎上を免れ、寛政の大地変では倒壊を免れた天守閣も、明治9(1876)年には解体されてしまう。その後長年、本丸は畑地となり、天守台のみが残っていた。三の丸は学校用地になり、広大な御殿跡に第一小学校と島原中学校(後の島原高校)が開校し、一時期女学校と商業学校、第一中学校が置かれた。
現在の島原城は昭和39(1964)年の建築で、大正末の島原城絵や藩日記記録などを元に築城当時のように復元されたものである。年間約30万人が訪れて、島原観光の名所となっている。館内の各資料館を紹介しましょう。 |